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友人の兄が中々に愉快な人物で、度々話に聞いた。

いわゆる勉強は出来ないものの、自分で様々な家具を作ったり、植物を栽培したり、果てには草野球チームを設立したり、バイト先でも高い評価を得ていたりと、むしろ出来ない事の方が少ないようにすら思えた。

いつも受動的に行動をしている自分とは対照的だと思った。自分はただ、消費する側として今まで生きてきたのだ。

当然誇れるものなど何もない。そもそも、人生で何かに熱中した記憶すらあるか怪しい。周囲を見ていると部活などを通じてなんらかの継続してきた趣味が確かにあるのが見て取れる。

そんな所を見ると、劣等感やコンプレックスとは言わずとも、自分が持っていない物を確かに他人が持っているのだという実感を胸に抱く。

興味を持ち始めたとしても、今となっては時間などない。芸術に興味はあるのだが、創造的活動が出来る人間ではないし、才能がない事は小学生の頃に証明されてしまった。

運動なんかは昔から手を出そうともしなかった。走るのは遅いし、不器用な自分は小学校でも馬鹿にされるだけだったのだ。

自分は、一体何が出来るのだろうか。勉強に関しては、成績が良いというわけではないにしろ、高校に入ってからそれなりに時間をかけてきた。

しかし、アイデンティティが勉強というのならば、自分の学問に対する情熱はあくまでアイデンティティを成立させる為に利用されているだけ過ぎず、本来の知的好奇心など虚構に過ぎないのではないのだろうか。

だとすれば、自分の特徴は全て虚構によって構成されているのかもしれない。

更に悪い事に、自分の書いた文章も、図も、数式も、全てオリジナリティなどはない。それは必ず自分がどこかで見知っているものだ。

中学の時、文学というものに憧れて様々な文豪の文を読み漁り、物語を綴った。恥ずかしい話だ。その時、意識はしていないというのにヘミング・ウェイの著作である誰がために鐘はなるの冒頭に露骨に似ていた事が強く印象に残っている。

当時は芥川龍之介の影響も強く受けていた。文章を書いた時は特に意識はしていなくても、後から読み返せばすぐに場面が浮かんでくる。ああ、この語り草は「地獄変」を意識したものだ、そんな風に。

自分の創造力の無さが悔やまれる。創造性の欠如は、結果としてEgo-identityの欠如に繋がってしまったというわけだ。

それでいて、イデオロギーに迎合する事すら能わなかった自分はただただ卑下されるべき存在なのである。

きっと、いつか、創造性を育む機会が訪れないのでしょうか。