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今日の昼休み、T氏がまた担任に成績について説教されていた。

 

T氏はぼくの中等部時代からの数少ない友人の一人だ。

もう一人、ぼくの友人といえる人物がいて、彼は医者の家系で医学部を志望していた。今思い返せば、中等部時代からの友人といったらこの二人ぐらいだったと思う。

前々から面識はあったものの、この二人と本格的に交友を持ったのは中等部の二年の終わりで、当時A氏はいつも野球部に所属するT氏の帰りを待つ為に教室で読書や、勉学などをしていた。

ぼくも、夜の学校の雰囲気がなんとなく好きで、6時頃まで学校に残る事が帰宅部であるのに1週間に2回ほどあったので、自然に彼らと交流を持つようになっていった。

最初は学校の帰りに一緒にコンビニなどに行ってアイスを食べながら雑談をしたりするぐらいだったのだが、次第に学校の外で遊ぶ機会も増えていった。

遊びとはいっても、横浜や鎌倉の街を散歩したり、雪の降った日に公園で雪合戦をしたり、無意味な行動ばかりであったが、自分達の関係はなんとなく、それで良いのであるという暗黙の了解によって成り立っていたし、当人達もそれに満足していた。

 

中等部の夏になると、周りはある程度高校に進学する際のことについて意識するようになった。

ぼくの高校ではいくつかのクラスがあって、基本的に内部生と外部生は別々になっている。
その中でも中高一貫生のみが進学する特進は特殊で、文理融合で、極端に授業数が多く、中学成績が一定以上でないと進学が出来ない(とは言っても辞退する生徒もいるので余程定員が厳しい年でない限り希望すれば入る)、いわゆる程度は知れているが、それなりの大学へ進学する為のクラスであった。
ぼくとA氏は比較的成績が良い方であったので、とりあえずと言った感じで特進を志望していたのだが、T氏の成績は中の中で良いわけではなかったし、特別勉強に対して熱意があるというわけでもなかった。
ぼくとA氏が、夏頃になってT氏に選抜クラスへ進むことを伝え、お前も来ないのかと尋ねると、T氏は、理系一般クラスで指定校推薦を取るか、外部の高校へ進学するのだと言った。
後にT氏の母親から聞いた話なのだが、これがきっかけとなって突如T氏は部活を辞め、塾に通い、猛勉強を始めたのだという。部活を辞めた事については知っていたが、そのような様子は毛頭ないように見えたので、意外であった。
次の定期考査ではもう学年10位以内ぐらいの成績だった。そして、T氏はA氏やぼくと共に選抜へ進むことを告げた。これには驚かされたし、三人組が、三人組である事に我々は誇りすら持ち始めていた。
そして、私達は三人で選抜クラスへ進むこととなる。

 

特進クラスに進学してからも、私とA氏は比較的勉強自体を苦痛には感じない人間であったので、成績は良好であった。

それに比べて、T氏はそれほど勉強の好きな人間ではなかった。心優しい青年であったが、このクラスにおける存在の指標である成績と性格は比例しない。

次第にT氏の成績は落ちていき、高校一年の頃はまだしも高校二年になると確実に学力の低下は目に見えてきて、今となっては下から数えて三番目程度になってしまった。

今でも三人はそれなりに話すし、べつに特別関係に亀裂が入ったわけでもない(高校に入ってから自由な時間が減ったので、遊ぶ機会はかなり少なくなった)が、T氏は、しょっちゅう成績について担任に指摘されて、疲れきってしまったように思える。

挨拶をしても、返事が覚束なかったり、すっかり気の抜けた人間となってしまったし、勉強に対して苦痛を覚えているという旨の発言も何度か彼の口から耳にした。

保護者面談の日、偶然会った彼の母親にも時々学校に関して限界であることを呟いていると相談されて、返す言葉が思い浮かばなかった。

そもそもの彼が特進クラスへ進む引き金となったのは、ぼくとA氏だ。彼は本当は、一般理系クラスに進んで、部活を続けながら推薦などで大学へ進んだ方が良かったのだと、いつも思ってしまう。いくらこの高校と言えど、芝浦工業の指定校くらいはあるはずだ。

担任に、彼が説教されている光景を見ると、申し訳ない気持ちで、胸がはちきれそうになる。

先月はどうにも日記を書く時間がなかった。今月もどうにもありそうにない。

出来事を記録するのは好きな方なので、これからは何かしら書く事があったら記録することを心がけたい

 

今日は、長時間生まれつきなんらかの精神障害を持つ人物が集まる場所に居た。

 

まず、最初に少女がいた。

ピンク色のファーコートを着た、いかにも年頃のそれといった感じであった。身長も大きく、バランスの取れた身体つきである。特に身長に関して私と同程度なので、年齢もそう自分と違わないだろう。

顔立ちも至って普通。少しハーフのように見える。

到底なんらかの障害を持っているようには思えなかったし、親との会話も至って正常だった。

ただ、母親が口元を真っ赤にして怒鳴るような口ぶりで話しかけていた。母親が口周りを手で擦るたびに赤くなっていったのは皮膚が異様に弱いのだろうか。

「ただのストレスだった」「ストレスが溜まりすぎている」などと言っていたが、正直何を言っているのかがよくわからなかった。主語がないが、省略された主語は推測するに少女または母親自身なのだろうか?

唯一、正常でないと言えたのは、椅子に座っている間に読んでいた本が簡単な二桁の足し算の本だった事、そしてそれが教科書ではない事だった。

演算能力に何らかの障害を持っているのだろうか?

 

小太りの少年がいた。

椅子に座るなりおもむろに3DSを開き、言葉を口にする事はなかった。

動きもほとんどない。制服を着ていて、恐らく高校生だと思う。

 

痩せた少年がいた。

私の隣に座っていたが、ずっとスマホを弄っていた。

スマホの内容は、外国の駅などの風景の画像が殆どだったが、少年は特に1つの英単語が表紙に書かれた青いノートの画像を拡大し、眺めていた。

しばらくすると、少年は突如席から立ち上がり、どこかへ行ってしまった。

私の席が揺れ動くほどの勢いで立ち上がったので、少し驚いた。

自閉傾向のある少年は、往々にしてゆっくりと立ち上がる事が出来なかったり、もっと細かい所だとプリントなどを回す時に強い勢いで前の席から取るなどを、無自覚で行うように思える(しょせん、これは私の経験則に過ぎないので、一般化は安直である)。

 

中年程度の容姿をした、男性がいた。

全身に赤いアトピーのようなものが出来ていた。

隣には親がいて、男性は時々、呂律の回らないかんじで「かゆい」と呟いたり、隣の親の肩を叩いて、自分の背中の痒い箇所を指摘していた。

それを聞くと、親は男性の背中を掻く。これが、10分に5回程度繰り返されていた。

 

男性とも女性ともつかない、中年の人がいた。

殆ど言葉を呟かない。容姿から察するに、40~50代のように思える。付き添いには、老年の親と思われる人物がいた。

顔つきは、目がギョロついていて、くまが異様に深く、口は尖っていた。

一番印象に残っている「人」だった。どうやらその人は、待つ事が難しいようで、時々親の足を掴んでいた。叩くわけでも、つねるわけでもなく、掴む。それなりの握力はあるようで、年齢の相まっているのか親は「痛い」とその度に言っていた。

途中で親は、その人の横に座るのをやめ、席を立った。その人は、足を何度も掴んでいた。言葉を使う様子は、ない。

その後、看護師(と言うとなんだか違和感がある)が親に「大変ですね」と声をかけていた。

 

20~30代と思える、女性がいた。

失礼な話だが、一番面白かった。

容姿は、異様にくまが深いが、それ以外は普通のように思えた。若干ハーフの気配もした。

来るなり椅子の上にしゃがみ、特に意味がないと思われるパ行の連なりを連呼し出した。

「パペパピピピピププパパパ」などといった具合で、それを数回繰り返した。出落ちは卑怯だと思う。

親は「やめなさい」と何度も言っていたが、「申し訳ない」と1回の「やめなさい」につき3~4回ほど返す。

親に何かを言われる度に、笑いながら「申し訳ない」を連呼する。その言葉はあまりにも状況と不釣り合いだった。

既に私の顔は歪んでいた。思わぬ所で戦いが始まってしまった。

その後、突如12月も終わりだよー!!と叫んで階段を降りてどこかへ行った。私は堪え切れず吹き出した。

今日は、年末なのもあって親戚の家を訪ねる事になった。

親戚付き合いなど今までは殆ど無かったような家だったが、ぼくの祖母が亡くなってからもう六年になろうとしている。関係の悪い親戚であろうと集まらざるを得ない状況といったわけだ。

不謹慎かもしれないが、ぼくは恐らく学校があるので七回忌には出席出来ないだろう。普段出不精のぼくだが、流石に七回忌も出ずにこういう集まりにすら出ないというのも気まずいものがある。

ぼくの母方の家系は男が二人、女が六人と非常に比率が女に寄っていた。

その内の男兄弟二人(ぼくから見れば叔父)も結局は子供を作る事は無かったので、ぼくが生まれる前に亡くなった祖父はずっとその事を案じていたと言う。

祖父は聡明な人間だったが、話を聞く限りどうにも堅すぎた。そして、目立ちたがり屋だった。

老いゆく人間は一線を退き、後世を作る人間に託すべきであると、理解していなかったのだ。

いつまでも家庭の主人公であった祖父の死の後、一度家族は散り散りになった、祖母が亡くなり、もはや家族は形骸化した。

それにしても、ぼくの父が婿養子に入る事がなかったとしたら、母方の名前を継ぐ物は誰もいなかった事になる。そして、数十年後にはこの家系で母方の名前を持つ最後の一人になるのかもしれない。

ぼくには兄弟はいないし、親戚が皆このような具合なので、期待がかかる。やれ社長だの、科学者だの、祀り上げられる。気分はいいものじゃない。だから、親戚などとはなるべく鉢合わせる事を避けたかった。

失礼な話だが、祖父や祖母などが存命であったらさぞ可愛がられていた事だろう。申し訳無い気持ちになるのがおちだが。

親戚の家に入ると、お年玉が渡された。親戚にもなんだかんだで子供は多いので、ぼくの母が払ったお年玉の総額を考えるとどっこいどっこいになるだろう。

叔母の夫の実家は豪邸だった。交通の便が悪いとは言え、これだけ大きい家には関心する。

何を話していたのかはよく覚えていない。自分から話しかける事はなく、言われた事に受け答えするだけだった、ただでさえ仲の悪い母親のきょうだいなのだから、表面上は普通に付き合っているように見えても、どうせなんらかの考えがあるのだろうと思うとやるせない気持ちになる。

祖父母の死に関しては何かとトラブルが多い。三女が祖母の残した資産を勝手に持ちだしたり、墓の費用を誰も払おうとしなかったり、親戚間の仲の悪さは金銭面に特に現れている。

 

ストーブの石油が足りなくなったと言われて、叔父とガソリンスタンドに買いに行く事になった。

この家族は男が少ないので、力がそこそこあると思われるぼくも行く事になったのだろう、叔父は寡黙な人で、自分から意見を言う人間ではない。もう60にもなるし、未だに兄と二人暮らしをしている辺り、この先結婚をする事も無いのだろう。子供を残せる年齢でもない。

長男がこの様子だから、この家はこうなってしまったのだ。生前の祖父は、そう言っていたと母から聞いた。

 

階段で石油を運ぶことになる。最近、妙に体力が落ちた事を実感する。

腕は数年前に比べて随分細くなった。腹や尻などの中途半端な肉は落ちないが、手足だけが病人のように細くなっていく。

片手で持とうとすると、腕が石油の箱に引っ張られる。バランスを崩し、箱を地面に置く事でバランスを取り戻す。

両手を使えばどうという事はなかった。少し持ち辛いので、不愉快だった。叔父は二人で持つ事を提案してきたが、石油は二つあるので、流石に一人ずつ持った方が速いと思った。

昔出来た事が出来なくなるというのは、妙な喪失感がある。自分が老いれば、往々にして直面する事であると思うと嫌になる。

ぼくは用事があると言って先に電車で家に帰った。空気がどうにも合わなかった。

電車から見る風景は窮屈な広場と違って人間味に満ちていた。数日前までクリスマスムードだったのに、いかにも新年といった雰囲気だ。

代わり映えのしない日常にとって、毎日のように移り変わる都会の喧噪は忘れていた事を思い出させてくれる。ぼくは人の多い場所は嫌いだが、別に雑踏が嫌いなわけではないのだ。

この学校はクソだ。

大学受験における集団意識の強要が、ここまで醜いとは思わなかった。

どうして、どうしてぼくはこんな高校に入ってしまったのか、何度も自分に問いかけ続けて来た。そして、その度に小学生のぼくが入る附属中学の上にある高校の選抜コースの事など、中学ですら十分な説明が為されなかったのだから知る由もないと言い訳してきた。

巡り合わせが悪かったのだろう。悪いのは誰でもない、誰でもない。そう思わなければ、やっていられないし、やってこれなかった。

だが、今まで持ってきた、自分を騙す為の、紙風船のように脆い器が、受験という実体によってはち切れそうになる。一年の頃は皆まだ余裕があった、まだ始まったばかりで、新鮮だった。何も見えないけれども、時間、可能性という、根拠のない自身を補強する武器がある、そういう自覚があった。

ああ、可能性とは何とも無責任で、卑怯な物だろうか!

散々青年に対し、希望を餌に手招きした挙句、青年が最も絶望の沼に近付く瞬間に急にどこかへ姿を消してしまうのである。

 

二年生になってから学校を休む事も増えた。今もそう変わったものではないが明日が学校だと思うといつも憂鬱になっていた。

そうだ、二年生の5月の頃にはもうとっくに精神は疲弊していた。周りは相変わらず、あの担任の方針に付き従うだけだった。自分と違い、周りはなんと希望に満ちた顔で歩いているのであろうか。彼らは、ぼくよりずっと彼らの方が望む希望からは遠のいているというのに。

つまらない茶番と、当時の家庭の不和が重なり、気力がなくなった。何もしない事が増えた。

成績は不思議と上がっていた。勉学を疎かにしても、国語が補正項として働く。そして、どれだけ成績を取っても、担任に煽られるだけであって結局のところそれ以上の物はなかった。むしろ、成績の低い者が担任に励まされる場面ばかりを見ていた。湧いてくるのは、渇いた笑いだけだった。

担任にはその時期、どうやら随分と勉学に励んでいると思われていたようだった。そこまで打ち込む必要はないとも言われたが、実際の所何もしていなかった。息切れするとも言われた。ぼくは息をするだけで精一杯なのに、このクラスの息苦しさを、変える判断を下せるのは、君一人じゃあないかと、つまらない事を思った。

 

心の拠り所はない、最初から求めてもいなかったし、仮に現実にそういう人物がいたとしても打ち明ける事も出来なかっただろう。ぼくは生来、そういう人間ではない。

精々ぼくに出来る抵抗は、サブカルチャーに縋り、布団の上で希望に満ちた未来への妄想を広げる程度のものであった。

 

思えば中学時代に比べれば随分人間関係に関しては改善したし、他人とのコミュニケーション能力も向上したと思う。

ぼくの中学時代を見ていた人間ならきっと分かると思うが、中学時代のぼくは全く友人がいなかったし、スカイプですら人と話すと最初は緊張で吃ってしまうほどだった。

今は誰とでもそれなりに話せる、なんとなく場を持たせる事が出来る。

男子校六年という特性上、女性と話すのは多少難しいかもしれないが、恐らく女性のいる環境に短期間いるだけで改善する物だとは思う(それが交際関係に繋がるかはまた別の話である)。

そういう意味で、大きな成長をした。高校のクラスメイトとも、誤魔化し誤魔化しに会話を交わせるようになった。学校において大半を占める憂鬱な気分の時間でも、無理に明るい雰囲気を取り繕う事が出来るようになった。

中学時代のぼくを知る人間からは、明るくなったと良く言われた、中学時代のぼくを知らない人間からは、愉快な人間だとも言われた。

だから、決してぼくが今苦しんでいるのは、人間関係によるものではない。それでも、三年になった今、クラスの雰囲気の圧迫感が、余計に辛くて仕方がない。

このクラスの特定の誰かが悪いわけでもないし、きっとみんな悪い人間ではないのだと思う。現行の制度に何の反抗も示さず、希望に満ちていた頃の雰囲気を引きずり、中途半端な不満が立ち込めているこの環境に、ぼくが耐えられないだけなのだ。

この最終学年になってから数人この環境に異を唱える人間が出てきた。話を聞けば、受験は団体戦、このクラスのモチベーションを壊すような事をするな、協調性を大切にしろ、ああ、過去にぼくが担任に異を唱えた時と同じ文字列が、並んでいる。

 

彼らの話はぼくに少しの勇気を与えた、それと同時に、やはりこういうものだなあと思わせた。

学校を辞めたい、高卒認定の制度を何度も調べた。どこかの高校へ転入はできないか。何度思った事か。

担任は完全に歯車が回っていると思っている。保護者会でも、このクラスは最高のクラスだと、自信と希望に満ちた顔で言ったという。

それにしても、彼も年齢が年齢である。ぼくの世代で引退すると言っていた。長らく伝統のように続いてきた担任の意に沿わない青年達への、あの寂蒔の悲哀の伝染が再来する事は無いと思うと、少しほっとする。

 

駄文を書いてしまった、読み返しても何を言いたいのか分からない。高校を辞めたいというだけの事を詳細に述べるのにここまでの文字数が必要だとは思わなかった、この環境に対する複雑な環境を文章にするにはこれを書き殴るのに要した三十分と数分では足りなかった。

それでも、戒めとして、記録として、誰にも届くはずのなかった寂蒔の悲哀を、インターネットの海にそっと置く。

ぼくが、自分の高校に対する不満について文章にする事は、これが最後になるだろう。

大学に入っても、仮に浪人しても、何かの事情により就職したとしても、高校の事は闇に葬るのだ。もう、いっぱいいっぱいだ。

22

朝起きる。寝起きはどうにも体が怠い、スマホで今日の天気と気温を確認する。

気温は17度、天気は曇り。だが、身体はそれよりも寒く感じた。春の昼間と、夏の早朝以外にぼくが快適だと感じる事があまりない。

特に何かする気も起きず、単語帳をパラパラと眺める。数十分するとプリキュアが始まる、仕方がないので誰もいないリビングで、プリキュアを見る。両親はまだ寝ている。

睡眠は十分にとったはずなのに、どうにも眠気が覚めない。

こういう時はコーヒーでも入れて、少しは眠気を覚まそうと思ったが、やる気が出ずに二度寝してしまった。

起きると12時。結構寝てしまったと思いながら起きる。19度、まだ寒い。

母が昼飯を作って、机の上にサランラップをかけて置いていた、量が多く、ベーコンを少し残してしまった。

ぼくは食事をあまり残さない人間だった。

というのも、嫌いな物が特に無く、腹の容量も極端に少ないというわけではなかったからだ。

しかし、高校生になってから、特に高校2年に入ってからか、平日は学校に7時頃まで居残り、勉強をしている事が多く、腹も空かなくなり、あまり食欲が無くなってきてしまった。食事を残す事も多くなった。

それに対してなんとなく罪悪感を感じてしまうのは、ぼくが幼稚園の時弁当を残すと母親にこっぴどく叱られていたからだろうか。小学校に入って給食になったが、給食を残した事は結局一度も無かった。

14時頃まで地理の参考書を眺める。まあまあ地理も面白いなあと思えてくる、地図の図法とかそういうモノはぼくは大嫌いなのだが、気候などは嫌いではない。

14時半になって、今更せっかくの休日を家で過ごすのもなんだか良くないなあと思い始める。

かと言ってどこへ行くかも思い浮かばない、今の時間に他の街へ遊びに出ても帰るのは19時、いやそれよりも遅いかもしれない。

このまま疲れて明日の学校へ赴くのは、心身共に得策ではないと考え結局近所の図書館に行く事にした、閉館の17時まで図書館で数学をやった。

帰りにイトーヨーカドーに寄って買い物、飲料水や菓子などを買う。混んでいたので空くまで暇つぶしにフードコートで数学をしていた。

帰ってすぐの夕飯は19時頃だった。こちらは残さなかった。

風呂に入り、歯を磨く。自分の中で入浴・歯磨きというものは、これから何も食べることがなく、外に出ることもないという宣言、すなわち就寝の合図なので、なんとなくこれらの後は落ち着く。

うっかり朝まで起きてしまうなどといった時は、この2つのどちらかが極端に遅くなってしまった場合が多い。

1日のやる事が全て終わった20時頃から、22時頃までは物理をやっていた。東大同日で屈辱を受けた波動の復習をし、15分ほどリスニングの音声を聞く。

ぼくは22時睡眠を目標にしているのだが、そうはうまくいかない。寝付くのに時間のかかる人間なので、結局布団の中で1時間以上過ごしてしまう事も珍しくはない。

そういう時間を無駄に感じたので、最近は眠くなるまで地図帳を眺めたり、単語帳を眺めたりしていた。

それにしてもこの1日、プリキュア以外で何が楽しかったのか、よく思い出せない。

22

ぼくは殆どの授業を寝ている。

今日もいつも通りに授業中にうとうとと眠っていた。ああ!授業中の眠りほど素晴らしいものはこの世界に存在するのだろうか!

授業を受けているのは苦痛で、うとうとしているのを耐えるのもまた苦痛だが、ひとたび眠りにつくとその後は意識が半分あるのに確かに眠っている、快楽だけが精神に流れ込んでくる。まるで麻薬のようだ。

しかも、不思議と目が覚めても寝覚めの悪い早朝のような倦怠感でもなく、晴れ晴れとした気分になってすっきりとした感覚だけが残る。

問題は眠ろうとして眠れない時である。

授業が妙に騒がしかったり、腕の感覚や位置がおかしく感じられたり、光に敏感だったりする時もあり妙に眠りにつき辛い。

こうなってしまったらおしまいだ。

頭痛など様々な身体の不調に反応する脳が、「眠れ」と命令してくるのだが、眠れない。

ゆえに、眠れないことに対する焦燥感を覚えてしまうのだ。

さらに、授業にも集中できないときた。手詰まりだ、どうしようもなく動けない。精神的疲労に、身体的疲労がついていっていない。

日に日にこういうことが増えていっている。そして、ぼくの精神はさらに疲弊していく。夏休みなどというものは関係ない。そこには、夏期講習があるのだ。

ぼくの自律神経なんてものは睡眠不足と、冷蔵庫のようなクーラーと灼熱の外気に侵されてとっくにぶち壊されているのだろう。

もう、そんなこともどうでもいい。後1年半耐えれば、きっと何かが見える。これだけは自分に言い聞かせなければならない。

21

昨日までの雨には驚かされた。ぼくの住んでいる神奈川県でも夏の局地的大雨のような激しい雨が1日中続いていた。

家から少し離れた場所に川があって、その川は昔暴れ川と呼ばれていたほどに氾濫が多かった川らしい。

堤防が設置されてから氾濫は無くなったのだが、呼び名が付くくらいならばどのくらい増水していたのかが興味があった。寝坊をして家を出るのがギリギリになってしまい、様子を見るほどの時間がなかったのが悔やまれる。

そういえば、昔住んでいた家の近くは段差のある家が多かったが、川の事を考えて作られた段差だったのかもしれない。

ただ、それよりもニュースで見た栃木の映像はすごかったな。栃木には祖母の実家がある。数年前に行った時は実家の前にある畑の周りにたくさんのカエルがいて、近付こうとするとすぐに水田に飛び込む。その姿は生まれてからずっと住宅街に住んでいる自分には新鮮に見えた。

祖母の実家の状況は少し気になる所だが、人生で数回しか行った事はない。最後に行ったのは五年ほど前の葬式だろうか。連絡先も母に聞かないと分からないので連絡を取るのは憚られる。

 

今日も学校が終わって、20時頃に駅へ着いた。

昨日の大雨とは打って変わって晴れた日も、静かに終わろうとしている。

その時はうっかり忘れていたのだが、用事があって本屋に行く為に後少し先の駅で降りる予定だった。ぼくは少しの間電車を待つ事になってしまった。

平日の夜8時、それも都会と言うには少し無理のある街なので、ホームは閑散としていた。

特にする事もないので、ホーム内を少し歩く。朝早くホームに着いてしまって人が殆どいない光景は何度も見たが、夜のホームで人が少ないというのはどうにも珍しいように思える。

気が付けば、ぼくは線路を見つめていた。

ぼくの精神状態は常に、至って正常だ。それでも、線路を見つめているとどうにも自分が知らず知らずのうちにこの場所に身を投げ出してしまうのではないかと考えてしまう。

杞憂なのかもしれない、いや、杞憂なのだ。ぼくはどれだけ気分が悪くなった時であっても、死への恐怖だけは持ち続けてきた。生への執着ではなく、死への恐怖だけを持ち続けた。これはぼくの最大の特長の一つであり、ぼくを生者たらしめる所以なのだ。

だからこそ、自分は決してここに飛び込むことはないし、その願望も当然ない。最後の咆哮を放とうと、一体誰がそれを聞き、何を変える事が出来るというのか。

それでも、脳裏によぎる、迫り来るような光景はぼくの心を怯ませ、ついにぼくはホームの「黄色い線」からの一歩後ろまで下がった。

電車が来る。ところで、誰もいないホームで夜に電車が向かってくるというのは妙に趣がある。特に冬で寒さに耐えつつ駅のホームの自動販売機でおしるこなどを買うといかにもという感じだ。