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最近、行動パターンが決まってきてしまっている事に危機感を覚える。

昼飯は決まって蕎麦かパスタか弁当かコンビニで適当なものを買うかのどれかで、家から坂を上るか下るかの二択で何をするかが殆ど決まってしまう。

休日なんてそんなものなのかもしれない。夏休みなんてそんなものかもしれない。

でも、ぼくの周りの人達はそうじゃなかった。みんな大阪に行ったり、海外に出かけたり、様々な場所に出掛けている。

昔からこういう周りとの差異に違和感があった。

周りと同じじゃなければいけないという使命感はむしろ最近になって芽生えてきたもので、昔はそこまででもなかったが、周りが夏休みに思い出といえるような思い出を作っている事に関しては少し羨ましいと思っていた。

夏休みと言えば、プールに行ったり、花火を見たり、海に行ったり、田んぼのあるような田舎に行ったり……というのが一般的なイメージだろうか。

そういう思いに駆られて、中学生の夏休みで一度だけこういう行動を積極的にした事がある。

するとどうだ、全く楽しくないし、記憶にも残らない。

普段経験しない物事を体験すると「おぉ」とは感じるものの、記憶、身体に、全くその経験が染み渡っている感じがしない。現に今その頃に何をしたかなど半分も覚えていないし、その時に味わった感覚などは1/10も思い出すことができない。

その時の感覚を仮に断片だけでも思い出せたとしても、自分が経験したものではなく、第三者視点からそれを経験した人物を見つめているような感覚に陥ってしまう。

ぼくは自分に絶望した、自分が楽しいと思っていた物事が、楽しくない事を知ってしまった。

ぼくは、周りが楽しいと思える事を楽しめなかった人間なのだ。それには留まらず、他がそうしているような、思い出という形ですら自分の心に経験を残すことができない。

他人が楽しいと思っている事を模倣しても、どうしたことかそこに楽しさを見い出せない。

人格形成に問題があったのか、それとも出来事に対する受け取り方に問題があったのか、経験の内容に問題があったのか。今となっては分からないし、検証する手立てすらない。

ただ、確かに楽しめなかったという事実は存在するのだ。そして、その事実に対する罪悪感や、やりきれない感情はぼく自身の抗えない全体主義的な、周囲との同化と共に増幅し、ぼくを蝕んでいく。