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魚は少なくとも人に見える範囲では殆ど自己表現などを行わず、人間らしさというものがまるでない。

慣用句を例に出すと、よく「死んだ魚のような目」と言われているのはまさに魚とは無感情で、人間らしさが無い事の象徴なのではないだろうか。

そもそも死んだ魚の目と生きた魚の目に殆ど差異は無いし、仮に差異があったとしてもそれを生み出しているのは鮮度という要素であり生死ではないので、この言葉は魚全般の目を指しているようにすら思える。

むろん、魚の一見習性に基づいただけのように思える行動に対して何らかの人間らしさを見いだす事の出来る人もいるのかもしれないが、無作為に選んだ100人の内少なくとも2割以上がそれらの感情を抱いている確率は無に等しいだろう。

例えば、また板の上に置かれている魚を見て可哀想だとは思うだろうか。
一々そんな事を思っていたら料理なんて出来ないし、そのあまりにも無抵抗な魚の姿に滑稽さすら覚えてしまうかもしれない。
しかし、これが動物となると訳が違う。ただの赤い塊としてまな板の上に置かれているのならまだしも、ウサギなどの動物をそのまままな板の上に置いたとしたら大半の人間は何の感情も抱かずにそれを捌くなどという事は出来ないはずだ。

宗教においても特定の動物の肉を食べてはいけないという規定は散見されるが、魚類に関しては精々動物性食品や、断食などとして一緒くたに扱われ禁じられる事があるものの、魚自体を禁止したものは聞いた事がない。
また、牧畜が残酷だという意見に対して、魚の養殖が残酷だという意見はごく僅かだし、漁に関しても同じようなことが言える。

ぼくはこのような人間の魚に対する「雑な扱い」なんとも面白おかしく、好きであった。
これらの事を全て理解していたわけでは到底ないが、昔から気恥ずかしい思いをしたり、失敗をしてしまった時はいつも魚を思い浮かべ、その無垢さを羨望していた。

ぼくは幼稚園の頃から目立つのが嫌いだったし、人とコミュニケーションを取ることを拒み、片っ端から囲碁や将棋などのボードゲームのルールを覚えるのが楽しみだった。プレイするよりもルールを覚える方が楽しかった。
小学校に入っても算数などの人為的な影響の無い科目が好きだった。人為的要素の組み込まれた歴史は嫌いだったが、どういった事か国語は得意だった。

そして、いつしか何の人間らしさも持たずにただ魚のように生きる事が正義だと思うようになった。