20

友人の兄が中々に愉快な人物で、度々話に聞いた。

いわゆる勉強は出来ないものの、自分で様々な家具を作ったり、植物を栽培したり、果てには草野球チームを設立したり、バイト先でも高い評価を得ていたりと、むしろ出来ない事の方が少ないようにすら思えた。

いつも受動的に行動をしている自分とは対照的だと思った。自分はただ、消費する側として今まで生きてきたのだ。

当然誇れるものなど何もない。そもそも、人生で何かに熱中した記憶すらあるか怪しい。周囲を見ていると部活などを通じてなんらかの継続してきた趣味が確かにあるのが見て取れる。

そんな所を見ると、劣等感やコンプレックスとは言わずとも、自分が持っていない物を確かに他人が持っているのだという実感を胸に抱く。

興味を持ち始めたとしても、今となっては時間などない。芸術に興味はあるのだが、創造的活動が出来る人間ではないし、才能がない事は小学生の頃に証明されてしまった。

運動なんかは昔から手を出そうともしなかった。走るのは遅いし、不器用な自分は小学校でも馬鹿にされるだけだったのだ。

自分は、一体何が出来るのだろうか。勉強に関しては、成績が良いというわけではないにしろ、高校に入ってからそれなりに時間をかけてきた。

しかし、アイデンティティが勉強というのならば、自分の学問に対する情熱はあくまでアイデンティティを成立させる為に利用されているだけ過ぎず、本来の知的好奇心など虚構に過ぎないのではないのだろうか。

だとすれば、自分の特徴は全て虚構によって構成されているのかもしれない。

更に悪い事に、自分の書いた文章も、図も、数式も、全てオリジナリティなどはない。それは必ず自分がどこかで見知っているものだ。

中学の時、文学というものに憧れて様々な文豪の文を読み漁り、物語を綴った。恥ずかしい話だ。その時、意識はしていないというのにヘミング・ウェイの著作である誰がために鐘はなるの冒頭に露骨に似ていた事が強く印象に残っている。

当時は芥川龍之介の影響も強く受けていた。文章を書いた時は特に意識はしていなくても、後から読み返せばすぐに場面が浮かんでくる。ああ、この語り草は「地獄変」を意識したものだ、そんな風に。

自分の創造力の無さが悔やまれる。創造性の欠如は、結果としてEgo-identityの欠如に繋がってしまったというわけだ。

それでいて、イデオロギーに迎合する事すら能わなかった自分はただただ卑下されるべき存在なのである。

きっと、いつか、創造性を育む機会が訪れないのでしょうか。

19

最近、身体の不安の事ばかり考えている。

目尻の皮膚は腫れ、後頭部に鋭い痛みが頻繁に走る。目眩も増えたし、髪の毛がとにかく抜けるようになった。

最近は学校行事も多く、多少はまともになったのだが、少し前までろくに寝れなかった。授業で寝ようとしても、寝る事を意識すると腕の位置などが妙に気になって眠れなくなってしまう。たぶん睡眠時間は平均して3時間程度しかないと思う。

ぼくは、元々精神面には自信がある。何度か、いっそ思考を放棄してみようと考えた事があるのだが、その全ては失敗に終わった。理性は、身体の何倍も強かった。

昔はよく感情を表す方で、理性とはだいぶ離れた精神のあり方をしていた気がする。当時の思考回路など断片すら思い出す事は出来ないが、そこで起こった記憶自体は残っているのだ。

金魚や、虫、忌み嫌っていた対象でさえも、その生命が終われば甚く悲しんだし、誰かが幸福を味わっているのを見ると自分さえ幸福な気分になっていた。

また、自分が不快だと思うと相手に関係なくそれを訴え、怒っていた。

今はこの反動だろうか、嬉しい、悲しい、羨ましい、そんな感情が、自分の中からすっかりと取り去られてしまったかんじがする。

特に、最後に関しては妙な方向へと転換された。かつては嫉妬とか、羨望とか、そんな感情を抱いていた人々に対して、憧れを抱くようになった。

届かない憧れを見るのが好きになった。自分が持たない輝かしい物を持つ人々が、好きになった。

何故ここまで感情面における変化が訪れたのか?成長と言ってしまえば簡単だが、あまりにも抽象的すぎる。回答を付けるとするのならば、感情のありようの変化を後押しした最大の存在は、今までの中身の薄い人生十数年余りによって発達した、感情をうまく丸め込む技術だろう。

感情をうまく丸め込むという行為は、自分に対する失意ばかりを増幅させ、他の意思をどんどん打ち消していく。それでも、ぼくにとっては最大の友であり、敬愛すべき兄弟なのだ。

先にも言った通り、ぼくの精神は至って正常である。考えの中枢は極めて論理的な思考に包まれている(錯覚の可能性はある)し、取るに足らない事で心の底からぼくが怒ったり、投げやりな行動を示す事はなんらかの利益が発生しない限りありえないと見て良い。

だが、精神がいくら屈強であろうとも、身体はどうだ。身体は、いくら強くあってもいつかは限界が来る。

ましてやぼくは生来の運動嫌いで、普通の人間よりも限界は近いのだ。これがぼくにとって身体の異常が、精神の異常よりも余程やっかいである理由だ。

一般に、身体の異常はその人間自体に恐怖を与える。恐怖以上の感情はなく、それによって精神が狂ってしまう事もあるが、明らかに死を近付けるような異常ではない限りは精神にまで影響を及ぼす事は無いと見ていいだろう。

それに比べて、精神の異常は「非行動的な行動力」を後押ししてくれる。身体の異常は、何もぼくに与える事はなく、ただ、静かに、無機質に行動だけを毟り取り去っていく。

18

悲しみの社会記録。

社会に関してはいつも悲しみを背負ってきた。気がする。

長い。

前提としてぼくは理系である。故にいわゆる大学受験で使う社会科目は1つであり、大学入試センター試験というマークオンリーの試験でしか使わない。

おおむね志望校は2校ほどあるが、片方のセンター社会の配点は12/550点、もう片方は0/750点、こんな物に時間をかけるのははっきり言ってお笑いである。

ちなみに授業は全科目全くと言っていいほど聞いていない。偏にテスト前の詰め込みのみである。

小学生の頃は社会が一番の苦手科目であったにも関わらず悪を裁く法律家を目指していた。

その後学年が上がって段々と社会を舐め始めると別に法律を学んでも悪が裁けるわけではないと知ったので興味を失った。ついでにやることもないので工学部とか入れたらいいなと思い始めた。

中学で数学が楽しいと思った。思っただけで得意ではない。

 

・日本史

社会はカラダに悪い、特に日本史は猛毒だ。

別に日本に恨みがあるわけではないし、社会貢献はしていないが反社会的行動を起こすつもりもない。

当然歴史認識に関しても何か意見があるわけではないが、どうあがいても出来ない科目だった。

まず、ぼくは特に意味のない漢字の読みを覚えるのが物凄く苦手だった。

そう、ここでぶち当たる壁が人名の読みである。制度とかもなんか漢字がいっぱいあるのでよくわからなかった。でも武家諸法度は覚えやすいね。

本居宣長など読めるはずがない、織田信長は語呂がいいのでなんとか読めた。前方後円墳もぼくの記憶に現存する数少ない日本史要素である。

そもそも、俊明すら読めないぼくにこれらを要求するのはどう考えても酷だった。

小学生時代の歴史のテストは主に日本史である。したがって、小学生時代の社会の成績は酷かった。一般に小学校のテストは満点で当然と言われているが、ぼくは40~60点が常であった。

学校のテストでこれなのだから、塾のテストは素晴らしい結果ばかり残していた。

解答欄を「金閣寺」とだけ埋め2点を獲得した時は見事に親共々呼び出しを受け、塾長とたのしい面談(注1)をした覚えがある。

ただ、他の科目で社会に関しては補っていたし、公民と地理分野は直視しても問題のない程度には取れていたので中学受験でも社会に苦手意識はなかったし、考えた事もなかった。

中学校時代の歴史のテストは主に日本史である。したがって(くりかえし)

中学時代は流石のぼくも人間並の知恵を獲得していたので、悪しき暗記(注2)によって、大体7~8割の得点を獲得しその場を切り抜けていた。テストが終わった3日後には基本的に内容の8割程度を忘れている。忘却曲線がなんちゃらとかそんな甘い物ではない。

テスト直前に詰め込むcramな勉強方法であったので、当然その過程にあった小テストなどの点数は満点が100点である事を疑う値を取っていたのは言うまでもない。

今となっては歴代天皇昭和天皇天智天皇くらいしか覚えていないし、紫式部が何を書いたかもよくわかっていない。室町時代に何があったのかもよくわからない。征夷大将軍は多分焼夷弾みたいな感じだと思う。

遺跡が青森の辺りにあった事は覚えている。ああ、鹿児島の方にもあったかな、住宅街のど真ん中にもあった気がする。

高校で日本史?そんな事をしたら命がいくつあっても足りないだろう。

 

・世界史

高校からの新規追加科目。

自分は日本史の能力に何らかの生来の欠陥を抱えていると思われるのでダメかと思ったが案外いける。いける。

でも量がびっくりするほど多い。まあまあ楽しい。

こちらの中国史は漢字なのに覚えはいい。実は大体どっかで見た事がある内容ばっかなのも大きいか。

近代中国史は神だと思う。三国志はよくわからないです。

まあ、やらないだろうね。

 

・地理

昔はやれば出来た。やらなくてもそこそこ出来た。

中学一年でも地理は履修したのだが一学期で世界地図と首都を覚えさせられた。コモロの首都がモロニ、この知識は恐らく一生かかっても何かに使う事は無いだろう。

コモロモロニの発音がすごくいいので未だ覚えている。というかアフリカが好きなのでアフリカは大体覚えている。

自分の知識と偏見によるとアフリカで好きなのはコートジボワールシエラレオネである。シエラレオネは語呂はアフリカ最底辺だが、その歴史は実に複雑だ。興味があったら調べて欲しい。

コートジボワール象牙海岸という呼称に自分の何かを揺さぶられただけで特に文化などに興味はない。胡椒なだけに呼称なのだ。

最近センター地理の過去問を学校で解かされたが感覚で解いたらクラス3位だった。確信を持って解けた問題はこの1/3にも満たないし、地図の上の方にあるから多分ここは寒い!中国の左上のほうは多分砂漠がある!くらいの感覚だった。次はない。

ぼくは、社会については直前に詰め込んでダメだったら社会関係ない所受けよう!くらいのポジティブシンキングを実行しているので正直適当なのだが、国立理系至上主義で私立文系卒の担任には少し刺激的すぎるジョークなのでうっかり口を滑らせようものならばクラスの余事象となるのがオチだろう。

 

・公民

ファッキン常識科目。倫政は理系に与える受業は無いらしい(注3)ので履修したのは現社のみ。

現代社会の学年末考査で無事クラス最下位を獲得したぼくであったが、センターは当てずっぽうでいいので得意であった。

ルソーだかロックだかソルロックだか知らないがとりあえず常識がこの科目では重要なのである。制服の着用に1/3程度で失敗するなど常識(注4)のない人間であるぼくだが、常識さえあればこの科目はなんとかなる。

センター形式だと順当に60点台が取れるので、現代社会を選択するぞ!勉強するぞ!みたいに息巻いていた時期があった気がするが、志望校がどうやら現代社会を選択出来ない事が判明して計画はスピーディーかつスムーズに破綻した。

小学校時代は公民を学ぶ毎に社会のシステムの欠陥が浮き彫りになる様があまりにも恐ろしく、殆どの事項を暗記していた。

人に何らかの認識を植え付けるには恐怖が一番効果的であると教えてくれた素晴らしい科目である。中学に上がってからは未来を憂う事を諦め、社会を舐める学生になってしまったのでそこまで覚えは良くなかった。

 

【注釈】

1. 何か生徒に極端な行動が見られた時に行われる三者面談を指す。川の名前に江戸川と書くなどして以前にも呼び出しを食らった。

2.ノートの赤字部分だけを覚えてその順番通りに解答用紙に書き込むまでの一連の手順を指す。このようなテストを作る教師にも責任がある。

3.先代の学年1位が社会で倫政を選択して失敗をしついでに落ちたので担任が忌み嫌っているという説もあるが定かではない。

4.コモンセンス。

17

隣のマンションの階段からは、風景がきれいに見える。

風景を見ていると、例え遠くにある構造物でも直線距離である事がよく分かる。

家から駅まで仮に2点間を結ぶ直線距離で歩けたら、通学時間はどれだけ短縮されることだろう。

家から学校まで直線距離ならば案外自転車でも問題がないくらいの時間でたどり着けるかもしれない。

家から真っ直ぐ進んでほぼ直角に曲がってしばらく進むと駅にたどり着くはずなので、だいたいの比から考えると通学時間は何分短縮されるだろうか……。風景を見ると、よくそんな事を考え、直線距離のすごさを再認識する。

それと同時に、いかにこの世界が直線距離を阻むモノに溢れているかも理解できる。

ありとあらゆる場所に家やビル、崖などが存在し、一直線へと方向を絞った場合の行き止まりを示す。

自分は、自分の想像している以上に道を曲がったり、様々な迂回をしているのかもしれない。

目的地まで真っ直ぐ進んでいると思っていても、実は微妙にズレていて一定の距離を真っ直ぐと進んで方向転換をしてからまた目的地の方向へ進んでいるなんていうこともある。

だとしたら、仮に今まで自分が直線距離に比べて迂回してきた道の総計はどれくらいになるのだろうか。

昔どこかで人間が生涯に歩く距離について見たのだが、確か、地球1周はしていた覚えはあるのでこれも結構な距離になるのかもしれない。

そういえば、中間のオブジェクトを全て無視出来るような手段があった。空を飛ぶことだ。

なるほど、飛行機は便利だし、鳥はわざわざ歩かないわけだ。

16

ふうせん、なんだかこの四文字からは不思議な感じがする。

そういえば、フーセンガムとなどのように「ウ」を伸ばしている表記もよく見る。違和感はない。

でも、ふーせんは違和感があるな。単純に見たことがないというのもあるが、平仮名だけの文字の羅列に長音符が入っていることにたぶん違和感を覚えるのだろう。

フウセンも逆に見ない。片仮名では同じ母音の並びは伸ばさないと微妙におかしく見えてしまう。

あまり関連性のない事だが、英語で不定冠詞がaからanに変えるようになった理由がなんとなく分かる気がした。

 

漢字にしても謎は多い、風の船ってなんだ。一応風船が浮遊している様子は、船にも見えなくはないが何か乗るわけでもないのに強引すぎないか。

 こういう時のインターネットだ。近代文明の象徴がすぐそばにあるというのは、なんとすばらしいものだろう。

調べてみたところ、風船という言葉は昔は気球の意味で使われていたのだが、日本海軍が風船と呼ばれていたものを気球と定めたことにより風船は気球の意味では使われなくなったらしい。

一般的に玩具用ゴム風船が風船と呼ばれるようになるのにそれから7年ほどのラグがあったり、その何十年も後にまた気球を風船と呼んでいる時期が登場しているのも面白い。

それでは、紙風船はどういう経緯があってこの呼称になったのだろうか。

そんな事を思いながら調べ物を続けていると、すぐに一日が終わってしまうので、ここら辺でやめる事にしよう。

15

最近、行動パターンが決まってきてしまっている事に危機感を覚える。

昼飯は決まって蕎麦かパスタか弁当かコンビニで適当なものを買うかのどれかで、家から坂を上るか下るかの二択で何をするかが殆ど決まってしまう。

休日なんてそんなものなのかもしれない。夏休みなんてそんなものかもしれない。

でも、ぼくの周りの人達はそうじゃなかった。みんな大阪に行ったり、海外に出かけたり、様々な場所に出掛けている。

昔からこういう周りとの差異に違和感があった。

周りと同じじゃなければいけないという使命感はむしろ最近になって芽生えてきたもので、昔はそこまででもなかったが、周りが夏休みに思い出といえるような思い出を作っている事に関しては少し羨ましいと思っていた。

夏休みと言えば、プールに行ったり、花火を見たり、海に行ったり、田んぼのあるような田舎に行ったり……というのが一般的なイメージだろうか。

そういう思いに駆られて、中学生の夏休みで一度だけこういう行動を積極的にした事がある。

するとどうだ、全く楽しくないし、記憶にも残らない。

普段経験しない物事を体験すると「おぉ」とは感じるものの、記憶、身体に、全くその経験が染み渡っている感じがしない。現に今その頃に何をしたかなど半分も覚えていないし、その時に味わった感覚などは1/10も思い出すことができない。

その時の感覚を仮に断片だけでも思い出せたとしても、自分が経験したものではなく、第三者視点からそれを経験した人物を見つめているような感覚に陥ってしまう。

ぼくは自分に絶望した、自分が楽しいと思っていた物事が、楽しくない事を知ってしまった。

ぼくは、周りが楽しいと思える事を楽しめなかった人間なのだ。それには留まらず、他がそうしているような、思い出という形ですら自分の心に経験を残すことができない。

他人が楽しいと思っている事を模倣しても、どうしたことかそこに楽しさを見い出せない。

人格形成に問題があったのか、それとも出来事に対する受け取り方に問題があったのか、経験の内容に問題があったのか。今となっては分からないし、検証する手立てすらない。

ただ、確かに楽しめなかったという事実は存在するのだ。そして、その事実に対する罪悪感や、やりきれない感情はぼく自身の抗えない全体主義的な、周囲との同化と共に増幅し、ぼくを蝕んでいく。

14

学校の近くの道路に、大きな木があった。

大きな木は道にまで出ており、その枝は街灯すらも包んでいた。

秋になると、その木の落ち葉で下の歩道が完全に埋まってしまうほどだった。

ある日、ぼくが重要な参考書を学校に忘れてしまって、参考書を回収する為に夏休みの朝早くからとぼとぼと学校に向かい歩いていると、木の前で工事が行われていて、その下に作業員がいた。

「この木、切り倒すんですか」

「ああ、道路に出ていて危ないから切り倒すんだよ」

「この木の種類は、なんと言うのでしょうかね」

「それは知らないなあ」

なんとなく木を切り倒す理由が気になったので、作業員と少し話をした。木の種類はたんに興味から気になっていただけだが、どうにも年配の作業員にも分からなかったようだ。

工事が1日で終わったのか、切り倒される様子がどのようであったのか、長くはその場に留まらなかったのでぼくはそれを知らない。

8月の頭になって、夏期講習が始まるとぼくは再び学校に行く事になった。

その時、最初は木の事など気にも留めなかったが、後に思い出した。あの木はどうなったのだろう。気付いたのが授業中だったので、ぼくはどことなくその日は授業中にも関わらずそわそわとしていた気がする。

ぼくはこういう事をうっかり忘れてしまう事が多いので、授業中にひとたび忘れないように気をつけようと思うとずっとそれについて考えてしまう。

帰り道に木のあった場所へ寄ると、本当にその木はなくなっていた。

木のなくなった場所がすっかり更地になっていたというのだから、その木がいかに巨大であったかが伺える。

結局、それなりに気になってはいたものの実際に木が無くなっても特に寂しいなんてことはなかった。特に思い入れもないので当然のことだが。

それから一週間ぐらい経った後だろうか。ぼくはふとその木のあったあたりを見上げると、街灯には切られた木の枝が、執念のように絡み付いていた。